海外ドラマ —「リアリティ」と「フィクション」の間で

2016年1月6日ドラマリアリティ, 海外ドラマ

海外ドラマを語る前に、なぜ我々は海外ドラマにこうも魅了されてしまうのか、それを考える必要があるであろう。そして我々が思う以上に、その理由はきわめて単純である。そう、答えは我々が日本人であるということ、そして舞台が外国であると言うこと、それだけだ。日本で流行している多くの海外ドラマ、『24 -TWENTY FOUR-』『プリズンブレイク』『LOST』『ドクター・ハウス』『ER』等は、全てアメリカで制作されている。だからこそ我々は、面白さの源泉が彼らの能力にあると考えがちだ。だが、答えは違う。

現実感:「リアリティ」

我々はドラマにリアリティを求める。いや、かつてはそうではなかったのかもしれない。しかしドラマというメディアは本質的にリアリティを求められる存在である。

理由は簡単だ。ドラマというのは、アニメではない映像により全てが表現される。そこに存在している街・人・車・出来事……全ては我々が今自らの目で見ている後継の延長線上の表現技法が使われる。映像という媒体を用いる以上、ドラマは現実から逃れることが出来ないのである。

そして今、日本のドラマを見てみる。この読者の多くは日本に産まれ、日本で育っていることであろう。従って、我々の有す「現実感(リアリティ)がある」という判断指標は、まさしく「日本で起こりうるか否か」となる。

ここで一つの例を挙げよう。あるドラマをみているとき、若手の警察官が車の助手席で笑いながら「Pagetter」というウェブサイトを閲覧していた。当然、これは「Twitter」のパクリサイトとして登場した。この演出は、制作側から見れば、「SNSを車の中で見るというごく普通の若者の光景」として意図されている。しかし我々受け手にとってはそうはうつらない。我々は、世の中に「Pagetter」などというウェブサイトがないこと、そしてその名称からして「Twitter」を強く意識し(しかし大人の事情によりその名称を使用することができなかった)ていることをその瞬間に知ってしまう。するとどうだろう、ドラマで描かれている世界は、我々の現実とは切り離された全く異なる空間であるかのように感じられる。まさに「興ざめ」してしまうのである。

我々は決してドラマに「リアリティ」を求めているわけではない。つまり、「あー、こういうことは確かに現実に起こるかも知れない」という感想を抱くことを期待して見ているわけではない。しかし「絶対にないとはいいきれない可能世界」を全て否定してしまうと、我々はそこで「興ざめ」する。

「半沢直樹」「女王の教室」「家政婦のミタ」

しかし読者の中には次のように思う方も多いであろう。「半沢直樹」「女王の教室」「家政婦のミタ」といった作品には全くリアリティがない、我々が引き込まれるようそがないでは無いか……それは間違っている。果たして我々は、「銀行」「家政婦」といった職業に、「現実はこうであろう」というイメージを有しているだろうか。あるいは、「学校の教員のイメージ」を有しているだろうか。ほとんど経験していない「銀行」「家政婦」といった世界や、あまりに多くの経験があるためにひとつの判断に収まらないことを知っている「学校」といった世界は、それによりリアリティを逆に担保する。

我々を興ざめさせるポイントは、実は脚本全体ではなく、その細部に宿っている。つまり、抽象的な部分では無く、具体的な部分にある。「倍返しを宣言し、悪い上司を裁く銀行員」は、もしかしたらいるのかもしれないが、「Pagetter」は確実に存在していない——それが我々のリアリティなのだ。

海外ドラマのリアリティ

我々の判断指標は「日本」だ。しかし海外ドラマの舞台は外国、つまり我々の判断指標の外部である。だからこそ、我々は「興ざめ」することがない。まるでそのすべてが現実であるかのように錯覚すら出来てしまう。たとえアメリカ人が「色のついた長い棒のようなお菓子など存在しない。だから『Fringe/フリンジ』のウォルター・ビショップはリアリティに欠ける」と判断したとしても(彼の好物はそのお菓子だ)、我々はそのような判断軸を持たないために、「あるかもしれない」と思い込む。ここにリアリティの源泉があり、我々が海外ドラマに魅了される原因がある。